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チャイナエンパイアガイド(宋まで) 

 息抜きに、久々にチャイナエンパイアガイドにでも手を付けるかと思ったら、発生地域とかが宋までしかメモられてなくてショック。指導者(Leader)も、某所に書き込んだから誰かは把握できてるんだけど、スペリングをメモってないのがな。うーん、失敗失敗。

 ともあれ、丁度モンゴルをどう扱うかで、帝国をだだっと書き並べる形式に限界が出てきたところなので、書き上げた宋までのところを一旦投下しておこう。

 一応テンプレート的なもの↓

帝国名:原語名(年代)

 エポック ー 出現順位、兵力 Strength、出現地(原語)
 首都名(原語)、指導者名(原語、別名・本名・称号)
 持っていればナビゲーション

以下解説



第1エポック(前3000 - 前1400)

商朝:Shang Dynasty(前17世紀頃 - 前11世紀頃)

 1-6、3、黄河(Yellow River)
 安陽(Anyang)、成湯(Ch'eng T'ang、湯王)


 殷とも言う。建国者は聖王の代名詞の1つでもある、湯王。成湯の他、天乙、天乙湯とも呼ばれる。暴君の代名詞の1つ、夏の桀王に対して中国史上初となる放伐(天命を失った天子を武力で追放すること。平和的に前の天子が「天命の移りを悟って帝位を譲る」のが禅譲)を行った。

 安陽市は殷後期の都であった商邑の遺跡、いわゆる殷墟がある場所で、洛陽や開封もある河南地方にある(安陽は洛陽のやや北東)。殷は考古学的に確認されている(広域に権威を認められた)最古の王朝だが、伝承では神代の諸王、そして夏王朝がその前身に存在する。

 指導者(Leader)は先述の湯王。もっとも、『ヒストリー』において、本帝国で戦闘を行うことはまずあり得ないので、湯王を見ることもないだろう。



第2エポック(前1400 - 前450)

周朝:Zhou Dynasty(前11世紀頃 - 前256)

 2-2、6、渭水(Wei River)
 洛陽(Loyang)、文王(King Wen、姫昌)


 王朝の建国者は武王姫発。暴君の代名詞の1つ、殷の紂王を放伐して、殷の全国的権威を受け継いだ。

 そもそも「渭水(Wei River)」にあった鎬京(後に秦の咸陽、さらには長安)に発し、黄河中流の洛邑(洛陽)が首都になったのは、前770年に鎬京が犬戎(西戎、匈)に落とされてからである。この遷都の辺りで周の権威も衰えて、いわゆる春秋時代に突入する。ちなみに、戦国時代はこのエポックが終わってからになる。

 指導者は、殷代の西伯、姫昌。死後、周王を名乗った次子の姫発に文王と贈り名された。聖王の代名詞の1つであり、その名に相応しく文治と内政の統治者である(Leader なんぞおとなしく武王にしておけばよかっただろうに)。



第3エポック(前450 - 350)

漢朝:Han Dynasty(前202 - 220)

 3-4、11、華北平原地方(Great Plain of China)
 長安(Chang-An)、武帝(Wu-Ti、劉徹)
 南シナ海(South China Sea)


 建国者(前漢)は劉邦。戦国時代の争乱を統一したのが秦であるが、初の統一帝国秦は2代目で滅ぶ。この、今で言う中国という「統一された主体」を受け継いだのが漢である。

 マップでは四川(Szechuan)に属すと思われる漢中に発し、マップの渭水(Wei River)にある関中を根拠地として全国を統一。首都として、関中の旧咸陽に隣接して長安を建設する。一時「新」朝によって中絶した後、洛陽に都して再興した。以降を日本では後漢と呼ぶ。後漢建国者の劉秀の根拠地は、洛陽の南西にある南陽。劉邦の出身地の沛は長江下流なので「浙江(Chekiang)」に属すだろう(つまり、発生地を Great Plain of China と述べることは困難である)。

 指導者は第八代皇帝の武帝。前漢の中央集権化を進め、最盛期を築いた。長年の間、漢に下風を強いてきた匈奴に対して反撃を成功させたのが武帝だが、本ゲームで匈奴が出現するのは漢朝の直後であるため、武帝で拡張した勢力が匈奴に一方的に削られて終わるという悲しい結果になる。


 漢は、実質的な意味での統一中国の起源となったが故に、それ自体がいわゆる中国の民族や土地を表す総称として用いられるようになった。西域も経営したので、「中国地域」の全地方をはじめて掌握した帝国と言える。

 漢の権威が衰えて勢力割拠がはじまり、魏・呉・蜀漢の三国鼎立に収斂するのがいわゆる三国志の物語である。魏に取って代わった晋がこれを再統一するが、それもまだこのエポック内の出来事になる。だが、第3エポックが終わる頃にはこの晋もまた匈奴によって滅び、華北はモンゴリア諸族が割拠する場と化す。特に有力になったのは鮮卑であり、華北の民族や言語の組成がこの頃に大きく変化した。



第4エポック(300 - 750)

唐朝:Tang Dynasty(618 - 907)

 4-5、10、揚子江(Yangtze Kiang)
 長安(Cang-An)、太宗(T'ai-Tsung、李世民)
 南シナ海(South China Sea)


 建国者は李淵。晋が滅亡した後の南北朝体制を統一したのが隋であるが、李淵は隋の帝室と同じく、北朝の枢軸を担った武川鎮鮮卑貴族の出身である。隋室の求心力が二代目にしてなくなると、これを乗っ取りそのまま大興(長安)を都に建国した。

 李淵の根拠地は太原、かつて(戦国時代の)晋の都「晋陽」と呼ばれた場所で、マップで言えば渭水(Wei River)に属す。これは「華北平原 Great Plain of China」に属させることはできるかもしれないが……(つまり、発生地を「揚子江」と述べることは困難である)。

 指導者は李淵の次子、二代皇帝李世民。隋の禅譲を受けて唐国が成立した時点で、全土に群雄が割拠したわけだが、これを駆逐して全国を統一する指揮を取ったのが彼である。皇太子である兄を抹殺して皇位についた後も、北方の大国突厥を滅ぼすなど大きな軍事的成果を挙げた(これによって、高原諸部族から「天可汗」の称号を受けた)。内政においても評価が高く、貞観の治と呼ばれて、諸国の帝王学の模範となった。


 『ヒストリー』に登場する中国諸帝国の中でも、唐は世界帝国としての性質が特に強く、様々な文化が入り乱れ、日本も遣唐使によってその恩恵に大いに与った。その影響もあって唐の存在感は大きく、秦(china)、漢と並んで中国の代名詞の1つともなっている。

 久しぶりに西域を経営した王朝でもあり、その支配を吐蕃(チベット)と争った。トランスオクシアナ(西トルキスタン、トゥラーン、Turanian Plain地方)の支配も目指したが、この地方の政権は決起間もないアッバース朝に助けを求め、アッバース軍とタラス河畔で直接衝突をするに至る。この初の東西世界帝国の衝突に、唐は敗退を喫した。ほぼこのエポックの終了する頃のことであり、それから間もなく、安史の乱によって唐は大きく衰退し、西域の支配も吐蕃に奪われることになる。

 唐はその後も中央権力としての力を失っていき、やがて五代十国と言われる割拠時代に入る(唐に禅譲させて成立した華北政権の連なりが五代、それに反発して独自に皇帝を名乗った華南諸勢力が十国)。



第5エポック(750 - 1300)

宋朝:Song Dynasty(960 - 1279)

 5-5、9、四川(Szechuan)
 開封(Kaifeng)、神宗(Shen-Tsung、趙頊)
 南シナ海(South China Sea)


 建国者は趙匡胤。五代の後周王朝に取って代わり、弟の趙匡義の代に十国を滅ぼして全土を統一した。後周を引き継いで汴京(現在の開封、Yellow River 地方)に都する。女真族(満洲族)の金国の圧迫で浙江の臨安(Chekiang 地方)に都するが、これ以降を南宋と呼ぶ。いずれにせよ、「四川」が発祥の地になれそうもないことは言うまでもない。

 指導者は第六代皇帝の神宗趙頊である。五代(十国)の頃から北方民族系の王朝が勢力を拡大しており、これらの王朝に対抗するための軍事費が増大する一方、有力地主や商人による囲い込みで税収が減少するなど宋朝では財政危機が発生していた。これに対する改革を実行させたのが神宗である。彼は官僚の王安石を登用し、いわゆる新法運動を開始させた。既得権益を犯される有力者による抵抗に遭いながらも一定の成果を挙げた。


 モンゴリアにいた契丹族が遼国を立てて満州平原(Manchurian Plain)地方や華北平原(Great Plain of China)地方に進出し、またチベット系タングート族が宋から独立して黄河の上流域に西夏を立て、河西回廊を中心に勢力を振るうなど(渭水 Wei River 地方~タリム盆地 Tarim Basin 地方)、華北は北方民族の割拠に悩まされる。

 宋は始終押されがちであったが、満州平原で強大化した女真族が遼を駆逐、金王朝として勃興すると、この金によって首都の開封が落とされ、結局は華北全土が金の支配下となってしまう。その後宋は華南政権として江南に復活するが、以降を南宋と呼ぶのは先述の通りである。

 こうしてしばらくは金王朝のヘゲモニーによって一帯の歴史は動いたのであったが、最終的にモンゴリアから現れたモンゴル帝国によって金、西夏、南宋はともに征服されることとなるのである。






 唐なげぇ。明らかにそれぞれ独立項目にするべきだな。というか、モンゴルと清の扱いの違いに困らなくてすむので是非にも各国独立項目にするべきか。
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laevaと名乗っていましたが、呼ばれる際に恥ずかしいという問題が発覚して以来、にるば(nirva)と名乗ってます。RPG、ボードゲームなどが趣味。
 
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