/*http://blog-imgs-86-origin.fc2.com/n/i/r/nirvanaheim/css/91108.css*/

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

西方文化におけるカーストの精神史的位置 

前記事コメントより:
alley-cats様:
個人的には見えざる神を信仰していないブリソスの文化でも4カースト制が存在することなどより一神教的な救済理念には直接関係なくて、グローランサ西方の文化背景(アーリア文化に見られる職能分類のような何か)なのかもとか考えています。
 前記事で触れたのはあくまで「マルキオン教のコスモロジーにおけるカースト」なので、「西方文化におけるカースト」というとまた少し別の話になりますが……あと、ご発言の意図とズレている可能性があるので、失礼ながら、以下お返事というより聞いて思ったことを垂れ流す感じで。



 この点を見る際にまず前提的に思うことがありまして、グローランサの文化を見る際に、我々の世界と同様の文化発展史観を無条件に持っていいのか、という話です。

 おっしゃるような文化背景――記事中でも触れましたが、今更ながら、つまりはデュメジルの三機能仮説ですね――は、我々の世界ではその成立過程なりが歴史の闇に埋もれていますので、最早「ある具体文化の前提」であって、諸神話・説話はその前提の上に構築されてきた後付けのものということになります。つまり、人類が無文化の原始状態から徐々に獲得し、形成してきた結果が、歴史で確認できるところの具体的神話なり宗教なりになるわけです。

 でも、グローランサでこういう発想って適用していいのかなぁと思うわけです――語られてる神話伝承から、「文化背景まで」ではなく「文化背景を創り上げたところの事実」「具体的諸文化を作りだす前提、を形成した起源的出来事」まで辿れる可能性が強く担保されてるのがグローランサなような気がしています(いじくられた起源的出来事、を辿り解す必要も大きそうですが)。

 私はグローランサにあまり詳しくないので(→グローランサの創造に携わってきた人々の姿勢をよく知らないので)正直なんとも言えないのですが……言えないので、歴史時代と言ってよい時期でない範囲については、基本的に特定各コスモロジーの内部構造(と、グローランサ外の地球の知識)で論理を組み立てるようにしています。






 さて、西方文化におけるカーストについてですが、マルキオン教諸派の救済理念と、西方の文化背景としてのカーストの誕生にはやはり強い関係があるのだろうな、というように私は思っています。

 「一神教的な救済理念」という表現についてですが、まず(おそらく「救済」という表現一般を意識しておっしゃられたのではないでしょうが)、私が使った「救済」という言葉は「(ある精神体系において)最高価値を持つ状態にあらしめること」程度の意味に取っていただければ幸いです。つまり、前記事でインド系の思想における「輪廻からの解脱」を救済に含めているように、「神による救い」といった範囲には限らない、という意味ですが。

 いわゆる「神」を置かない(無神論)=非宗教というわけでもないので、無神論だからという理由で「ブリソス人が無宗教だ」と言うことはしませんし、ブリソス人が法に従って不老を得ることは、やはりブリソスの精神体系における救済構造だと思うわけです。

 ブリソス人がモスタリと違うところは、彼らに法を示した具体的に示した存在(マルキオン)がいる点……つまり、歴史(神話)的に後天的に法と不死性を獲得している(その前の状態と獲得する状態までのタイムラグがまともな意味であったかはさておいて)、ということが挙げられると思いますが、彼らにとっては不老は獲得し(「獲得するのが当然」にしても)、維持すべき対象ですよね。法に従って、世界の中で完全な存在であること、がゴール(=救済)であると。これがモスタリにおいては、不老は付随的結果であり手段以上の要素ではないのでしょうが……

 で、マルキオンが、混沌や悪による完全性への侵害(→死)を前に、「ただ物質的に存在し続ける以上の価値がある(→「真の生命」に与る)」ことを示したのが、「マルキオン教」の起源、なのではないかと。そして、その(社会下層/民に教えられるところの)基本的な手段は基本的に変わらない。法に(フレストル以降においては、法の精神に)従って精神の完全性を保つこと。そして、法の下のあり方として、やはりブリソスと変わらない4カーストが保たれていると。そんな状況。

(認識違いがあれば、お手数ながら指摘していただければ幸いです)






 こんな感じで、西方のカースト制度の精神史的(つまり、歴史的惰性で固定化したという要素以外の)意味は基本的にマルキオンの始原律法(=ブリソスの法)から変わってないと考えています。ただ「明示的法に従う」という部分から離れて成立し、またフレストルの《喜び》の啓示などを経て不明瞭さが増している(結果、宗派乱立が起きた)のが歴史的な流れなのだ、という認識です。
関連記事

コメント

私もこの辺は理解が足りなくて、あくまでも個人的な感想になってしまうのですが、以下のように考えています。簡潔にまとめられなかったので列挙的に

・グローランサの理論について
グローランサの文化においては唯一の真実は存在せず相対的に見地で語られることも少ない。一方でグローランサの根本ルールとして「全ての神話は真実である。例え矛盾していても」というのが有って、極論を言うとう「神話」を書き換えることにより「真実」を変更することができる。

・デュメジルの三機能仮説について
というようなグローランサの論理があるので、神話文化の共通性から過去を遡って起源を探るような手法はあまりグローランサ的ではない(もちろんグローランサを創造した人たちには強い影響があると思いますし、神知者のやったことを考えれば不可能でもないはずですが)。「後天的」とされる神話の方がグローランサ的に言えば真実なので直接デュメジルを引くのは意味がない。一方でアーリア文化に見られるようなカーストの起源を神話の時代、例えば特定の神々の子孫が特定の職能やクラスを構成するとか、最高神によって正しく分類された人々の子孫とするとかはありそう。

・ブリソス
ブリソス人の概念とマルキオン教の最も大きな違いは死後の世界という概念を認めるかどうかで、ブリソス人は死後の世界という概念を認めていません。また「不死」の前の「死」の神話を持たないことよりブリソス人にとっては不死は獲得したものではなく最初からそうであったものと認識されているのではないかと思います。

・救済
私の使用した「一神教的な救済理念」というのは、マルキオン教とブリソス人との違いの部分「より良く生きたものには死後に慰めが持たらされる」という部分を指しています。ブリソス人にとってカーストと不死は物理法則なようなもので従えば不死になるという直接的な原理ですが、マルキオン教徒にとってのカーストはあくまで「良く生きる」ための間接的な手段でしかないのではないかと思っています。

またヒンドゥー教においてはカースト間を転生することによって解脱に進むわけで、カーストはその宗教の構造上必須の概念ですが、マルキオン教においてはそこまで強い関係を持っていないと想像しています。それでカースト間の移動を許するようなフレストルの宗教改革が成立し得たのではないかと考えています。

うーう。やっぱり、まとまってませんね。

レスポンスしたつもりになって、してませんでした

申し訳ない。


>>第1・2節
我々外の人間は「神話を書き換えたことによって真実が変更された」ことを外から観察できる、ということも忘れてはいけないかと。あと本文で申したことは、神話文化の共通性は即共通の起源を示唆する(可能性が強く担保されている)、ということですね。まあ、起源がグレッグに書き換えられる可能性は常にあるわけですが、「その時点で辿れる最古の真実」を暫定的に起源としていいのではないかと。

なお念のため(alley-catsさん向けということでもなく)確認しておきますと、本文で書いたことは、
「グローランサでは神話は後天的なものではなく基底部を成すものなので(後からいじくれるという意味では後天的だが)、『これこれという文化があるのはこういう文化的背景構造があるから。で、それを説明するためにこういう起源神話が成立しているけど、それに本質性を見出すのはナンセンス』というような発想は適用できない、と思う」
という話でした。


>>直接引くのは意味がない
この話とは直接関係なく思っているのですが、(文化的)構造物を直接比定しようとする人って多いですよね。丸コピなんてするわけはそもそもないでしょうに。グレッグ風に言えば、
We almost have to drop the direct comparisons with Terrestial cultures.
とでもなりましょうか……


>>「死」の神話を持たないことより
なるほど。どこで得たのか、「ブリソス人は、不死から外れることを恐れるが故に変化を忌避する」というようなフレーズが何故か頭の中にありまして、ああいう表現をさせたようです。
ただ、「(その前の状態と獲得する状態までのタイムラグがまともな意味であったかはさておいて)」「獲得するのが当然」などと書いているように(後者は「自然」の方がよかったかな……)、実際の「獲得」過程なり、当事者認識には目を向けていません。論理の民(ひいては、その残滓たるブリソス人)はあくまで「それに従えば結果的に不死でいる法則を『知っている人間』」であり、目的論的世界観に対してモスタリほどには純粋な内部性を持っていない、ということが言いたかったのです(モスタリも完全に純粋ではありませんが)。

>>カーストの位置づけ

まず、二記事における興味の主眼は「マルキオン教のコスモロジー」なので、その文化圏に属する個人が持つ感覚の範囲については言及しません。
で、「良く生きる」ための間接的な手段というお話ですが、それはやはり軽視が過ぎていると私は思います。さらに率直に申しますと、プロテスタントキリスト教を源泉とした、現代的宗教観のバイアスがあるように感じます。

「間接的な手段に過ぎない」という表現が可能な程に軽いものならば、カースト移動ではなくカーストが破棄された宗派が普通に生まれていて、そこそこの勢力を持っているべきです。カースト移動は目的論的世界観に特に矛盾しません(前の記事を書いている段階では、ヒンドゥーに具体的に触れる際に「このカースト移動はフレストル派に取り入れられてますね」みたいなことが入ってました。冗長になるのでやめましたが)。人類平等を取り入れた新フレストル理想派教会でも、この世界観に沿って人間としての階梯を上げていこう、神に近づこう、とされます。やはりこの階梯(カースト)システムは「信仰にとっての(補助的な)手段」ではなく、「信仰」なのだと思います。

結局問題は、この目的論的世界観というやつに関わるわけです。端的に言えば、「よく生きる」に還元してしまうと、魔道と論理の宗教たる部分と一貫性を失うのです。

(この話のはじまりは、まりおん氏のところの記事だったりします。
 → http://d.hatena.ne.jp/mallion/20081115/p1
 あちらではまりおんさんの記事よりむしろ、なゆたさんのところの元記事へのレスをしてたりしますが……)


キリスト教では、「信仰」と「神学」が必ずしも調和してきませんでした。神学者よりも「純粋無垢な子羊」が宗教的に高い価値を持つことはよくあったし、現在でもそう。それは、キリスト教の起源として、法と論理が宗教的原理でないからです。適合し、調和させられ、よく嗜まれていることと、それが核にあることは異なります。

でも、マルキオン教では違いますよね。魔道士が魔道を学習し、熟達することには宗教的価値がある。また傍証レベルですが、宗教的価値がかなり即物的(魔法的)に反映されるこの世界で、個人の内心の自由というレベルで見えざる神を熱心に崇めることは何ももたらさない。この魔道コスモロジーを包含した形でマルキオン教のコスモロジーは組み上げられるべきと、そういう風に思っています。


>>「真の生命」に与る
蛇足ながら。これはキリスト教チックな言い方ですが、要は「《慰め》を得た(死後の)生」を意図しています。
大きな駅の駅前で「永遠の命を得られます」とかスピーカーでがなり立て、街宣説教をやってる聖書配布協力会とかいう集団がありますけど、世間的にはあれが連想されるフレーズかもしれませんね……

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://nirvanaheim.blog116.fc2.com/tb.php/304-14bc7ba6

プロフィール

laevaと名乗っていましたが、呼ばれる際に恥ずかしいという問題が発覚して以来、にるば(nirva)と名乗ってます。RPG、ボードゲームなどが趣味。
 
 コメントへの返信が大体遅れておりまして失礼しておりますが、おそらく質問等は、twitterの方でしていただいた方が短時間で認知できる確実性が高いかと思います(右カラム参照)。

コメント

トラックバック

RSS

最新記事

リンク

SkypeWeb

スクラップ

Tweets@nirvanaheim

検索フォーム

月別アーカイブ

 

記事カテゴリ

記事タグ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。