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電網夜話:銀英伝と制度構造 

 twitterのタイムライン上で、しばらく前に牧口が書き散らした銀英伝記事が言及されているのを見かけて懐かしくなったので、同日にmixiに放り込んでおいたそれに関する日記というか、件の記事が書かれるちょっと前にしたメッセのログ転載な日記をこっちに回収することにしてみた。ただのカレンダー埋めとも言う。

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[800字コラム] ドストエフスキー『賭博者』 

 本書のタイトルはその本質を一言で書き切っている。一見2つある題材――ルーレットと恋。だがこれは「賭博」の名の下に一つなのだ。

 アストレイが客観、ポリーナが愛(恋/賭博でなく)を割り振られている他は、主要人物は皆何かに賭けている。大敗あるいは火傷し、また上手くゲームを泳ぐ。主人公アレクセイは前半、ただ無防備な己をポリーナに投げ出し続けたが、これも己を質にポリーナの心に張るという賭博に他ならない。

 その賭けは常に失敗し――神の目で見れば、失敗に見える形で保留され続けた。だが父の賭けの敗北を見届け、保留する必要を失った彼女は遂に己をアレクセイに差し出す……この出来事は「未熟な若者に傷心の誇り高き女性は受け止め得なかった」とも語り得よう。だが敢えて、この愛が失敗したのは彼の「物狂おしい想念」が必然として愛を上回り、彼女が「二義的な位置に押しやられた」ためと言おう。この想念とは言うまでもなく、内なる「賭博者」である。

 恋/賭博しかできない彼は、当初ポリーナの愛を全く認識できなかったが、彼女の必死の吐露に遂に、「愛が転がり込んできた」ことを明確に理解する。彼が愛を一義とし愛に突き動かされていたならば、この愛を掴んだろう。だが理解の瞬間、彼を動かしたのは愛ならず賭博であった。「賭博者」が張ることなしに賞品を手にするなどあり得ない。

 主人公は転がり込んだ愛を顧みず、やはり賭博により愛を獲得しようとした。かくて彼は転がり込んだ幸運のままに行為の賭博には勝利し、だが、まさに賭博を使ったが故に愛を手放すことになる。愛は賭博の賞品/商品であることを拒んだのだ。

 終章、アストレイに真実を告げられて流れた彼の涙は、ポリーナが己を捨てたが故に二人が分かたれたわけでなく、自身が愛を棄てた故に今に至ったのだ、という真実を理解したがためであった。物語の始めから終わりまで賭博者であった男、それがアレクセイだったのである。

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[800字コラム] へうげもの「利休切腹」 

 へうげもの、それはまさに永劫回帰せる神話であり、然してただの円環でなく、確と前進する英雄叙事詩である。

 作者は物語の開始より主題の反復と対比を繰り返し、驚嘆すべき構成力を示してきた。へうげ第一部の締めと言うべきこの「利休切腹」において、この回帰する主題達は見事に完結を迎える。その主題とは例えば武と数寄、務めと己の対峙であり、そして(師)父と(弟)子の対峙、父殺し、また父子の継承であり……そして愛であり、また、タイトルである「へうげ」、笑いそのものでもある。

 腹心に輪切りにされながら、愛と赦しを与えた信長――その愛は非情の策謀家たる秀吉を殺し、愛を渇望して得られぬ畜生道に堕とした。鳴かぬ香炉に、己を敢えて危険に晒す腹心。秀吉が織部に利休の介錯を求めるあの場面――織部に「命令」ではなく「頼み」を告げるあの場面ほどに、秀吉の孤独が表れた場所はないだろう。

 一方、愛弟子に首を切られるという時に、利休もまた弟子に愛を、鼓舞を与える。だが秀吉を殺した信長の愛と異なり、利休の愛は織部を生かすのである。かつて織部が、友を失った信長を、敗れ果てた光秀を、そして死を見据えた利休自身を癒した「笑い」。それを以て、利休は刀を振り上げて苦しむ織部に救いと最後の示唆とを与えたのだ。ダール・イ・レゼベールがここにある。

 この二話を通して「武と数寄」の対立も昇華される。秀吉の前で(できぬ!)と苦悶した織部だが、実際にその言葉は放たれなかった。信長殺しの告白場面と異なり、命令と恫喝でことは動かなかった。織部を動かしたものは忠興との、そして孤独な秀吉が求める友情だったのだ。そして真実の自分を見出してより、この二項対立は本質的なものではなくなっていく。

 主人公が武と数寄に悩み、己の何たるが分からず迷走した第一部はこの第九十二席を以て完結する。彼は晴れて「へうげもの」となり――そしてここから、織部の本当の物語が始まるのだ。

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