スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[RPG] ブレカナで、初めてアダマスを使って思ったこと 

 アダマスを使って、というかアダマストループを使って、ですけれどね。
 ふと思って書きたくなったことがあるので、ちょいと寄り道しますさぁ。


で、何を思ったか


 ですが───

 N◎VAで「防御役PC」に敵の攻撃妨害を一任する文化が発達しているのは、
N◎VAにおいては、防御という行為が、『プロットという有限リソース』を攻撃行為と共有している
ためだ、ということをやっと認識することができた………

───という次第です。

 ブレカナ界隈で「アダマスは防御能力が高すぎて、他の人の行動機会をスポイルする」というような言説をみかけることがあります。実はブレカナ経験が少なかったので、これをあんまり現実味を以て見れなかったのですが、実際に使ってみると「なるほど」と思うところがあったわけですね。

続きを読む

スポンサーサイト

[RPG] 先週と今週の週記1:合宿N◎VA『託された言葉』 

 ふう。そろそろ更新するか。あ、S師、レスはもう少々お待ち下さい。


ゲーム合宿


 前の更新の翌日より、先週の月曜早朝までゲームサークルの合宿。色々計画はしていたのですが、結局RPGはN◎VAしかやらず。うーむ残念。合宿後はすぐに業務で本郷に行かんといけなかったし………

 さてテケトーにプレイレポ?でも。まずN◎VA一本目。

続きを読む

[ゲーム] ゲーム理論と「協調」のゲーム 

匿名血族.S にいさま

そもそも、いわゆる「ゲーム」の定義中に「対立性」が混入してるってことがあると思うんだよな。
少なくとも、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンはそこから始めてるんだし。

その上で、多人数ゲームやあるいはそれを近似的に二人非ゼロ和ゲームにして、初めて「協調」という概念が出てくるのだけど、この「協調性を発揮すること、それ自体を楽しむ」って概念ってどれくらい普遍的なのやら。


 対立性の話には第3章辺りで触れようと思っていたのですが(………絶賛肥大化中なので、5か6章くらいになるかも)、あそこで扱ってよかったのも確かですね。



ゲーム理論

 まず前提としてですけれども、私はあまりゲーム理論を応用することに賛同しません。(時代の問題で)RPGというメディアに関係なく発生したものですから。カイヨワ然り。ましてノイマンらのゲーム理論は。ノイマンとモルゲンシュテルンの「ゲーム理論」はそもそもが経済理論ですし、見ている「ゲーム」の範囲が小さいと言わざるを得ません。数学的に記述し難い要素が出現するや、分析能力が落ちる。

 カイヨワはまだ役に立ちますが、彼の理論もまたそうです。競争、偶然、模擬、眩暈、RPGという遊戯には、この全ての要素がかなりのレベルで含まれていますし、その上に、おっしゃるような「協調」というタームが積まれます。「協調」を一定レベルで含んだ遊戯集合は、競争や模擬とそれなりにかぶりますけれどね………



協調のゲーム

 で、どれくらい「普遍的」なのかという話ですが。とりあえず協調して何かを表現したりすることを基軸にした遊戯は普通に挙げられます。長縄跳びがそうですし、また即興劇がそうです(即興とわざわざ付けたのは、「模擬」分類の遊戯と差別化を図るためですが)。

 カイヨワの4カテゴリがこれらを分類不可能なのは、手落ちかと思いますね。「分類」を作ったことによって発生する境界領域・分類横断の問題などではなく(それは単に視点の問題ですし)、分類の不足です。これらは西洋にも普通にあるのですしね。


 しかし、日本的「ゲーム」の把握の仕方に収まるものとなるとなかなか見つかり難いのも確かかもしれません。でも、あるのですよ。我々の文化に。

「連歌」───これです。

 俳諧も近いですね。これらが「協調」に分類される「ゲーム」です。「ゲーム」の定義を「勝ち負けを争う遊戯」と規定されたら、連歌はおそらく補集合の方に入れられるかと思いますが、私はこれを現行のゲーム定義の欠陥だと考えます。連歌はルールの存在という点でままごとや即興劇などと一線を画しますし、「競争」「勝敗」要素の多寡という点でしりとりなどと一線を画しています。

 「ゲーム」には、「勝敗を争わない」要素が認められるべきです。対立性が「定義」に含まれるとはとんでもない。重要な要素ではあるが、これでゲームを定義することはできない。RPG者としても、私はそう主張します。

続きを読む

[RPG] 戦闘の位置づけの問題:1 始原的記憶 

 何故戦闘がRPGにおいて主要マターであり続けているのか。その理由を3つに分けて論じる。つもりだったのだが、ちょっと2つ目で手間取っているのでとりあえず1。



1.始原的記憶


 最初のRPGがミニチュアウォーゲームから生まれてしまったため。

 現在RPGを定義づける要素は、この初期形態からの拡張及び、潜在的にRPG的であった外部マターとの融合によって多様化し、RPGの「本質」は非常に豊かなものとなった。だがその一方で、やはりこの初期形態が「アーキタイプ」「原型」として、「基本」として見做されてしまう傾向はあるものであり、ために「戦闘」はRPGにおいて特別視される要素であり続けるのである。


 コンピュータゲームの領域において、「CRPG(=一般社会の用語としての「RPG」)とAVGとの分化」が起こっていることなど、象徴的であると言えよう。またCRPG周辺において、「戦闘と成長」要素が「RPGの本質」とする発想はよく見かけられるように思う。

 ある文化について考える時には、その始点となった個体の性質を考えることは避けられないものである。「歴史的状況を考えたら、このような文化が生まれたのは必然だったであろう」と主張できる場合でも、それを具体的に確立させる始点の性質が異なれば、その文化の展開に異なった様相が見られただろう可能性に留意。


 なお、ここでは「D&D以外のものからRPGというメディアが誕生した可能性」については論じない。軽く触れるならば、ウォーシミュレーションでない、他の種類のボードゲームを背景として生まれる可能性は十分あっただろうと思われる。トラベラーが初めのRPGになっていたら、この文化における戦闘の比重はかなり違っていたのではないか。あるいは、グレッグ・スタフォードがもっと早くに個人を単位とするゲーム形式を考案できたならば。

 まあ、機会あらば、いずれ。
 いずれというか、どなたかエルダー・シィング、もとい古のものな方がやってくれないかなぁ。RPG畑からは結構はみ出ることになる領域の話だし、あとif話を深めるのはあまり生産的でないという問題はあるが。


(続く)

[邪悪] 神への祈願 

イア、ニャルラトホテプ!
ニャルラトホテプ、ニャルラトホテプ、アイ!

おお"強壮なる使者"よ、身共は三度声をあげ、御身が真なる名を呼び出だしたり。御身が神秘の聖となすこの地に、地に描かれたる御身が印の権威により、まさに印に顕現し給うべし。この印によりて、身共が御身の忠実な僕たることを知り給え。来たりて身共の祈願を叶え、身共が御身の隷下として生き栄え、人世に御身の意を成すことを得させ給え。

ニャルラトホテプ、アイ!


というわけでニャル先生。
どうか私にセルフマネージメント能力を下さい。
【黒い人に頼む辺り、セルフマネージメント能力の欠如は決定的なようだ】

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。