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[800字コラム] 枕草子:親を海に突き落とした男の話 

 枕草子、第287段(能因本数え)。



【原文】


「右衛門尉(うえもんのじょう)なる者の、えせなる親を持たりて、人の見るに面伏せ(おもてぶせ)など、見苦しう思ひけるが、伊予の国よりのぼるとて、海に落とし入れてけるを、人の心憂がり、あさましがりけるほどに、七月十五日盆を奉るとていそぐを見たまひて、道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)、

 わたつ海に親をおし入れてこのぬしの盆する見るぞあはれなりける

とよみたまいけるこそ、いとをかしけれ」


【本文】


 男と阿闍梨と少納言の心情。これをどう解すかが問題となる。

 「えせなる」は「卑しい、よくない」を表すが、具体的に何が悪いのかは諸説分かれる。男の苦しみの理由次第で男への、そして少納言への共感度合は全く変わるだろう。「身分が卑しい」説の場合、「低階層の人間が頑張って中堅官僚になるも、出自の低さへ劣等感を持ち、遂にその象徴を消してしまった。でも愛してないわけではなく……人とは弱いものだよしみじみ」という話にでもなるだろうか。「老醜」「人格が卑しい」などの説もあり、先の解釈より身体感覚に近いだけ「お話」と捉える分が減り、同情の余地にも変わりがあるように思う。

 阿闍梨の心の方は二通り、人間の弱さに対する憐憫の情(人間弱いものだなぁ……)と、呆れからくる皮肉(殺しておいて供養か、しょうがない奴だ)とに解される。少納言の感想は難しい。あはれ、をかし、ともに「趣/風情がある、感じ入る」のような言葉だが、寄り添うようなあはれと異なり、客観的とされるをかしは遠巻きに見る感があり、その「をかし」を阿闍梨が歌を詠んだことに対して投げるわけだ。

 阿闍梨の歌を憐憫、「いとをかし」を「非常に趣のある」としたとしよう。枕草子の背後に見える少納言はそこで神妙に上品に、深々と同意しているような女性だろうか?私にはニヤけながらこう言っているように見えてしまう。「いやーホントいい話よね、趣深いわぁ」。

 斜に構え過ぎではないか。

 阿闍梨の歌は皮肉と解する方が少納言の人格はフォローされそうである。呆れをオブラートに包む阿闍梨、その呆れ顔を思って笑う少納言。そんな図を想像してもらえばよい。その方が枕草子らしいと私は思う。

 こうなると男には同情の余地がない方がいいというものだ。人々や阿闍梨には素直に呆れてもらおう。というわけで彼には単に、ダメ人格の親にキレて殺してしまうが習慣なので供養はする、みたいな輩であってもらいたいわけである。


【訳文】


「右衛門府で尉官をやっている男がいるのよ。そいつにはアレな親がいてね、そんな親を他人に見られるのを不面目でみっともないことだと思っていたのだけれど、伊予(愛媛)から上京しようって時にそいつは親を海に突き落としちゃったのよ。みんな噂して、悲しいとか情けないとか嘆かわしいとか呆れ返ってたんだけれど、その内に七月十五日になったのね。なんと、そいつが盆の供養を仏様にお供えしようって準備してるのよ。それをご覧になった道命阿闍梨が

『自分で大海に親を突き落としておいて、お盆にその親を供養しようっていうこの供養主の姿を見ていると、まったく、実に感じ入る何やらを受けるってものだよ……』

という感じに歌でお詠みになったんだけど、ほんっとウケるわよねこれ」

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[800字コラム] ドストエフスキー『賭博者』 

 本書のタイトルはその本質を一言で書き切っている。一見2つある題材――ルーレットと恋。だがこれは「賭博」の名の下に一つなのだ。

 アストレイが客観、ポリーナが愛(恋/賭博でなく)を割り振られている他は、主要人物は皆何かに賭けている。大敗あるいは火傷し、また上手くゲームを泳ぐ。主人公アレクセイは前半、ただ無防備な己をポリーナに投げ出し続けたが、これも己を質にポリーナの心に張るという賭博に他ならない。

 その賭けは常に失敗し――神の目で見れば、失敗に見える形で保留され続けた。だが父の賭けの敗北を見届け、保留する必要を失った彼女は遂に己をアレクセイに差し出す……この出来事は「未熟な若者に傷心の誇り高き女性は受け止め得なかった」とも語り得よう。だが敢えて、この愛が失敗したのは彼の「物狂おしい想念」が必然として愛を上回り、彼女が「二義的な位置に押しやられた」ためと言おう。この想念とは言うまでもなく、内なる「賭博者」である。

 恋/賭博しかできない彼は、当初ポリーナの愛を全く認識できなかったが、彼女の必死の吐露に遂に、「愛が転がり込んできた」ことを明確に理解する。彼が愛を一義とし愛に突き動かされていたならば、この愛を掴んだろう。だが理解の瞬間、彼を動かしたのは愛ならず賭博であった。「賭博者」が張ることなしに賞品を手にするなどあり得ない。

 主人公は転がり込んだ愛を顧みず、やはり賭博により愛を獲得しようとした。かくて彼は転がり込んだ幸運のままに行為の賭博には勝利し、だが、まさに賭博を使ったが故に愛を手放すことになる。愛は賭博の賞品/商品であることを拒んだのだ。

 終章、アストレイに真実を告げられて流れた彼の涙は、ポリーナが己を捨てたが故に二人が分かたれたわけでなく、自身が愛を棄てた故に今に至ったのだ、という真実を理解したがためであった。物語の始めから終わりまで賭博者であった男、それがアレクセイだったのである。

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[800字コラム] へうげもの「利休切腹」 

 へうげもの、それはまさに永劫回帰せる神話であり、然してただの円環でなく、確と前進する英雄叙事詩である。

 作者は物語の開始より主題の反復と対比を繰り返し、驚嘆すべき構成力を示してきた。へうげ第一部の締めと言うべきこの「利休切腹」において、この回帰する主題達は見事に完結を迎える。その主題とは例えば武と数寄、務めと己の対峙であり、そして(師)父と(弟)子の対峙、父殺し、また父子の継承であり……そして愛であり、また、タイトルである「へうげ」、笑いそのものでもある。

 腹心に輪切りにされながら、愛と赦しを与えた信長――その愛は非情の策謀家たる秀吉を殺し、愛を渇望して得られぬ畜生道に堕とした。鳴かぬ香炉に、己を敢えて危険に晒す腹心。秀吉が織部に利休の介錯を求めるあの場面――織部に「命令」ではなく「頼み」を告げるあの場面ほどに、秀吉の孤独が表れた場所はないだろう。

 一方、愛弟子に首を切られるという時に、利休もまた弟子に愛を、鼓舞を与える。だが秀吉を殺した信長の愛と異なり、利休の愛は織部を生かすのである。かつて織部が、友を失った信長を、敗れ果てた光秀を、そして死を見据えた利休自身を癒した「笑い」。それを以て、利休は刀を振り上げて苦しむ織部に救いと最後の示唆とを与えたのだ。ダール・イ・レゼベールがここにある。

 この二話を通して「武と数寄」の対立も昇華される。秀吉の前で(できぬ!)と苦悶した織部だが、実際にその言葉は放たれなかった。信長殺しの告白場面と異なり、命令と恫喝でことは動かなかった。織部を動かしたものは忠興との、そして孤独な秀吉が求める友情だったのだ。そして真実の自分を見出してより、この二項対立は本質的なものではなくなっていく。

 主人公が武と数寄に悩み、己の何たるが分からず迷走した第一部はこの第九十二席を以て完結する。彼は晴れて「へうげもの」となり――そしてここから、織部の本当の物語が始まるのだ。

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かつてなき寸鉄 

 今日の寸鉄は五句中、四句もが要注目のかつてない号で、感動。素晴らしい。

 最初の句の「ノーベル平和賞受賞者」にルビで実名を入れないのは、まあ表現の限界なのか。残念。第三句は打って変わってルビが。実名出してやれよw 四の句は、海原雄山がサラダ勝負で出してきたトマト丸ごと一個のごとく、正面から雄大に味わうべきもので、何も言うべきことはなし。第五句は、以前日顕批判で使われた「阿呆主」に比べると流石に劣るが、まあ面白いと言えるだろう。しかし、やっと竹入批判が出たと思ったら今度は竹入ばっかりだな。

 ちなみに「寸鉄」というのは某聖教新聞における……天声人語というか、まあそんな感じなもので、聖教新聞における最も価値のある記事です。爆笑ものなので、聖教新聞を読まされる機会があったらとりあえずここだけ読みましょう。とりあえず、近所のおばさんが「聖教新聞とりませんか?」とか通いつめてきたらこう返せばよろしい。
「寸鉄のスクラップだけくれ」
おばさんが既知外を見るような目で見てくるのであったら、彼女は聖教新聞もまともに読んでいないモグリです。間違いありません。
「折伏が足りん!」
と言ってドアを閉じれば二度と来なくなるでしょう。

 いつも思うのだが、神社新報も見習えばいいのに。プロパガンダ以外は変にまともだからな……「記者のことのは」とか、なんでこんなまともなことしか書けないのかと。
【そりゃ普通人だからに決まっているのだが】

 ところで労働収容所組合よ、世界初の寸鉄専ブログはまだかね。君に頼り切りになる気まんまんなんだが。

チャンピオンを読み、板垣漫画について雑惑 

・サナギさん

 とりあえず施川ユウキ先生の『サナギさん』がかなり巻頭の方に来てて焦りました。これってジャンプだったら『ジャガー』が前の方に載ってるってことですよね?一体何があったんだろうか…


・バキ

 あと何か『バキ』が終了するそうな。展開はグダグダで、下手なプロレスを見せられているようでしたが、まあ打ち切りなんだろうな。板垣先生は淡々とアツいバトル漫画を描いている間は「鬼才」としか言い様がないんですが、恋々とそれ以外のストーリー要素書き出すともうダメなんですよね…アリ、もといアライの話もそうですし。アライ(Jr.じゃなくて)は非常にいいキャラしていましたけれどね。

 しかし、もう勇次郎の敗北を思い描けなくなってるんだろうな。

 多分また新しい何かをすぐに描き出すとは思うんですが、「バキ」の仕切り直しになるのかな?後2回で今のを完結って、なんだかんだ言って「闘争」が主眼な漫画なのに無理でしょう。蒼天じゃあるまいし。バキが闘技場の扉を空けて、白光の中「戦いはこれからだ!」エンドでしょうか。仕切り直しをやるとしたら…よほどドラスティックなことやらなきゃいけませんよねぇ。勇次郎突然死とか。まあ年代ジャンプが一番楽ですか。

 とまれ、何の脈絡なく最強トーナメント始められても、ファンとして尻尾振ってついていきますので『バキ』以降でも頑張って下さい板垣先生。ファンはとても身勝手ですが、エサ放り投げられたらもうイチコロです。


・餓狼伝

 最新刊ゲト。最初の鞍馬戦がこれまた下手なプロレス(代りバンコで見せられる見せ場らしきもの)を見せられているように感じられて、相変わらず以下略な感じでした。が、まあ安原の彼女の鉄拳とかは普通に漫画として面白みがあったのでよしとしましょう。『バキ』の梢とかいう名の投石術使い(あの花山さんすら恐れさせたハルキング・ハーラー)より余程SANへのダメージが少なくてヨロシイです。

 と言いますか、やはり普通に面白くてヨシ、ですね!板垣先生のバトル漫画は本当に力があります。残念なところと言えば、梶原が解説役すら引木さんに奪われて、とうとう1コマしか登場しなくなったことくらいですか。あれ、長田も1コマだけだったかな?

 まあ、とまれ、主人公?というだけの理由で、イブニングに移ってから小便で目潰ししか目に見える動きを見せていない……誰だっけ?もう名前すら思い出せないですね。調べる気も起きないので、とりあえず仮称「グラビアアイドル」としておきます。イブニングに移ってから小便で目潰ししか目に見える動きを見せていないグラビアアイドルに比べて、梶原は非常に不憫です。原作では両方とも立派な餓狼だったのに、片方は主人公特権を保持しつつ、片方はそのライバルどころか、(長田の)脇役になってしまった。哀れです。

 まあ哀れな梶原のことは忘れていいとして、餓狼伝はまだまだ非常に面白いので、ずっと読み続けていきたいですね。ただ、最新号での象山裁きは如何なものかと思いましたが…神山さんが禁を解く姿が見れるのはいつの日でしょうか?


・ついでに

 松尾館長と言えば、最新刊を読んでいて思うのは、板垣先生は本当によくマスター・ショーザンを描いているなぁ!という点です。「何もかもが太い。指も太い」松尾館長の手が、もう板垣先生の絵でしか想像できません!で、単行本にPS餓狼伝のチラシが挟まっていたわけですが、そこに載っていたポリゴンの松尾館長の指が…

 指が、細い。

 むしろ全体的に細い。

ちょっとゲームに幻滅してみたりしました。

計画の有用性 

 読書計画について。
 『神道』を読み終えました。よゆー、と思っていても結局ギリギリになるものですね。もちろんこれにしか気を向けてないなんてことは全然ないわけですが…何事もしり切れトンボになる私には、予め具体的予定をどこかに明確に形として残しておくという手法は非常に有用、ということを実感しました(余裕を持った予定である必要はあるけれど)。上手いカンジに圧力になってヨロシイ。今後も使おうと思います。

 予定表によれば次はシャドウラン…レポートを書きつつ(泣。とりあえず判定のところをまとめたら(これは別段時間はかからなそう)アーキタイプ(この言葉がなくなって「サンプルキャラクター」になっているのは寂しいものがあります)とそれに付随して必要なルール、あと公式HPからIntroductory Adventureを訳そうと思います。3版用という問題はありますが…世界設定については…このシナリオに必要そうなところかつ、旧版から変わってそうなところだけでいいかなとりあえず。今日中にでも訳す所のページをまとめる所存。

 ところでむしろ即座に運用可能なクトゥルフジャパンのサンプルシナリオを翻訳した方がいい気がしてきました。でもクトゥルフの既製シナリオなら腐るほどあるし、クトゥルフジャパンにこだわって即時性を気にする必要はないのかな…とりあえず一読してみます。

 しかし前情報の段階から分かっていたことですが、シャドウランの判定はWoDのそれとよく似ています…というか、判定だけ取り上げたらこっちの方が洗練されているような…深く考えたら戦闘システムとかでも(そも一日の長がありますし)優位があるような気がしてきますが、考えるのはやめておきましょう危険思想です。
 現代物汎用ツールとしてのWoDは洗練されてていいシステムですが…今用意しているシナリオをシャドウラン用にカスタマイズしたくなりました。いえ、いずれにせよ「全部翻訳されている」という優位は揺るがないので何も問題ないわけですが。

 さて投票にでも行ってきますか。

最近買った本:『表現の自由 vs 知的財産権 ─ 著作権が自由を殺す?』 

c1a303cc.jpg まだ冒頭しか読んでいませんけれども、面白そうな本を買いました。

ケンブリュー・マクロード著『表現の自由 vs 知的財産権 ─ 著作権が自由を殺す?』2005、青土社
Kembrew Mcleod『Freedom of Expression』2005
 ケンブリュー・マクロードさんはアイオワ大学の先生。この日本語版の表紙じゃ中央にある(R)の記号が何を意味しているのか分かりにくいかもしれませんが、これ実は単なるシンボル、装飾ではないんです。英語版だと題名が『Freedom of Expression』だけとシンプルになっているのでもうちょっと分かりやすいんですけれども…実はこれ登録商標なんですよね。え?(R)が登録商標の記号だなんて常識?いえ、確かにそうですがそうではなくてですね、この「Freedom of Expression」という単語が登録商標なんです!
以下レッシグ先生のブログから(多少改竄)。

著者Kembrew McLeodはジャーナリスト、アイオワ大学教授、アクティビスト、ふざけ屋。
以下はillegal art .orgより。

Freedom of Expression (R)

1998年、Mcleodは悪ふざけ(あるいはコンセプト・アート)として“Freedom of Expression”「表現の自由」という言葉の商標登録を試みたが、審査を通過し商標権を取得してしまう。そこで友人に架空のパンクロック雑誌「Freedom of Expression」の発行者となってもらい、その事実を隠したまま弁護士に商標侵害について対応を依頼した。弁護士は以下の警告書(cease-and-desist letter)を送った。

当法律事務所は登録商標 FREEDOM OF EXPRESSION を所有するKembrew McLeod of Sunderland, Massachusetsの代理として……貴社によるFreedom of Expression(表現の自由)の使用は……市場での混乱を招き、クライアントの名声および信用を毀損する実質的リスクを形成している。よってこの警告書をもって、貴社による当社クライアントの商標権侵害に対する公式な通知とし、今後一切Freedom of Expression(表現の自由)を行使しないことを要求する。
 Hahhhahhahhhhh!!!(アメリカ人笑い)…いえ、冷静に考えて、笑えないジョークですね。凄いこと言ってますこの警告書。ちなみにこの「Freedom of Expression」の商標許可証は、本書の冒頭にしっかりと載せられています。

最近読んだ本:『ミトラス教』 

e46ffa2a.jpg 最近マルタン・フェルマースレンの『ミトラス教』という本を読みました。

マルタン・フェルマースレン著『ミトラス教』1973年、山本書店
Marten J.Vermaseren『Mithras de Geheimzinnige God』1959
 世界の歴史の大半において、「宗教」というものがパラダイムの代表格だと見做されてきました。であるからには時代の心性を把握するのに、その時代の支配的な宗教を知るのは非常に有用なことでしょう。というわけで、地中海世界の時代に、マニ教と並ぶキリスト教最大のライバルであるミトラス教の勉強をしてみたのですが…資料が少ない!大学の図書館の欠点は、専門にしている教授がいないと、その分野の書物は購入されない点だということを強く思い知らされます…

 メイジ的な視点で見ると、ローマがキリスト教に染まってしまったというのはセレスティアルコーラス内の政治闘争の結果ということになります…サードもどうせ出すならヴィクトリアンエイジでなく、ローマ時代のサプリを出せばよかったのに。地中海世界人、ひいてはローマ人の心性は、中世~近世のヨーロッパ人の心性なんかより余程我々現代日本人に近いんです。下手にヨーロッパ中世ファンタジーとか言うよりこちらの方が遥かに演じやすいはず。

 ととりとめもなく。

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